7月定例会 紹介 キューバ革命の号砲から70年
1953年7月26日 写真と絵でたどる「モンカダ兵営襲撃」
今から70年前の7月26日、キューバ革命の号砲が鳴り響きました。モンカダ兵営等への襲撃です。この号砲が、5年半後のキューバ革命の勝利(1959年1月)へと導き、反米闘争の先頭に立つ社会主義キューバ建国へと引き継がれていきました。70周年を記念して、7月26日、キューバ東部のサンティアゴ・デ・クーバで記念式典が70年前と同じように、未明5時から夜明けにかけて開かれました。集会には、ディアスカネル大統領はじめキューバ政府・党の要人がこぞって参加しました。集会の中で、ディアスカネル大統領は、全世界から駆けつけた200人以上にのぼるキューバ連帯の各運動体に感謝するとともに、「米国がキューバに対する残忍で大量虐殺的な封鎖を維持し、我々の国家の尊厳を踏みにじろうとする限り、我々は(いつ何時でも)モンカダを襲撃することになるだろう」と、70年前のモンカダ襲撃に結集した闘士の意志を、今後も引き継ぐことを再度宣言しました。今回は写真や絵を中心にして、70年前にタイムスリップして、フィデルに率いられたキューバの先進的若者が何を行い、それがキューバ革命勝利にどう結び付いたのかをたどっていきたいと思います。。
写真、7月26日、未明から夜明けにかけて開かれたサンティアゴ・デ・クーバでの記念式典
写真 記念式典で旧モンカダ兵営にプロジェクションマッピングされたフィデルとマルティ
70周年のロゴ
<7月26日未明 モンカダ兵営襲撃>
1953年7月26日、モンカダ兵営がある東部最大の都市サンティアゴ・デ・クーバは、年に1度のカーニバル最終日の日曜日で、お祭り一色に染まっていました。そこに突如夜明けの静けさを打ち破る銃撃音が響き渡りました。そう、フィデルらによるモンカダ兵営襲撃です。
キューバは当時、スペインからの独立戦争に、1898年に米帝国主義が介入したことで、事実上米の植民地と化していました。最大の産業である砂糖産業は、ユナイテッド・フルーツ等の米の巨大企業に完全に牛耳られ、農地の多くを米資本が所有していました。一方人民の多くは掘っ立て小屋での生活を余儀なくされていました。そのうえ、マフィアの思う通りに国が運営され、キューバ全体がカジノと売春宿が林立する米の歓楽街へと成り下がっていたのです。(キューバ革命勝利から60年以上が立ちますが、今でも米の植民地の痕跡は色濃く残っています。その象徴が永久租借権を盾に居座り続けるグァンタナモ米海軍基地)さらに、1952年には、米の最も忠実な傀儡[カイライ]であるバティスタがクーデターを起こし、国民の言論・表現、結社等の自由を力で押さえつけ、より一層米の想い通りの国家に、すなわち堕落と腐敗が極致に達する国家にキューバを変えようとしていました。
そのような国家を武力でもって立て直すことを目指したのが、モンカダ兵営等への襲撃でした。東部最大の兵営を襲撃・降伏させ、その中にある最新鋭の武器を奪取し、その後のゲリラ闘争に発展させようとしたのです。当日、襲撃の拠点となるシボニー農場に集まった百数十名の闘士は、未明に十数台の車に分乗し、モンカダ兵営に向かいました。フィデル率いる主力部隊約80名が、モンカダ兵営を目指しました。主力の援護を目的に、アベル・サンタマリア副司令官が率いる第2隊が隣の市民病院を、ラウル率いる第3隊が隣接する裁判所を襲撃・占拠をめざしました。さらに、バヤモ(市)の別動隊が市内のセスペデス兵営を襲撃しました。
いくらカーニバル中で油断しているとはいえ、モンカダ兵営には、千人を超える訓練を積み上げた兵士が、最新鋭の武器で武装し待機しています。正面突破では当然フィデル達に勝ち目はありません。そこで、フィデル達襲撃の闘士は全員政府軍の制服を身に着け、兵営内の兵士をだまして、われわれは軍兵士だとして兵営内にもぐりこみ、そののち、銃撃を敢行し混乱させ、その混乱に乗じて、武器を奪うことをもくろんだのです。あくまで奇襲です。ところが、当日運悪いことに兵営の外を見回っていたパトロールの兵士と遭遇してしまい、兵営に入り込む前に銃撃戦が始まってしまいました。奇襲作戦は失敗となりました。多分30分程度の銃撃戦の中で、フィデルは襲撃隊の撤退を命じます。兵営襲撃行動は軍事的には完全な敗北に終わりました。
写真 襲撃直後のモンカダ兵営、銃撃戦の跡がくっきりと
写真 アベル率いる第2隊が襲撃・占拠したサトゥルニーノ・ロラ市民病院
写真 別動隊が襲撃したバヤモにあるセスペデス兵営
<フィデルのもとに集まった千人を超える同志たち>
モンカダ襲撃の前年の1952年、バティスタのクーデターが起こるとフィデルは直ちに行動を開始しました。多くの既存政党がバティスタの「口約束」である「大統領選挙実施」に期待を表明する中、フィデルだけはバティスタに対しては、軍事行動による打倒しかないと説いて回り、多くの若者を惹きつけました。わずか1年余りで1200名以上の若者がフィデルのもとにはせ参じてきました。多くの者がなけなしの貯金や家財道具を売り払い「運動」に寄付し未来をかけました(当時フィデルは自分たちの組織・運動を単に「運動」と表していました)。
そのような結集した同志たちにフィデルは武器を用意し軍事訓練を敢行し、襲撃の闘士百数十名を選抜したのでした。
写真、襲撃前に軍事訓練中のフィデルと同志たち
後列中央がフィデル、向かって左から2番目の眼鏡をかけているのが副官のアベル・サンタマリア
<譲れなかった「1953年」と「東部」>
なぜフィデル達は、武器・兵員共に十分でないうえ、訓練も不十分なままで、そして軍事的には明らかに圧倒的不利な状況であったとしても、モンカダ兵営襲撃を強行したのでしょうか。それはどうしても譲れないものがあったからです。それは「1953年」と「東部」です。フィデル達は当時自分たちを「百周年の使徒(若者)(センテナリオ)」と称していました。百周年とは、ホセ・マルティ生誕百年を意味し、その年がずばり1953年でした。つまりマルティが目指し闘ってきた、米帝国主義からのくびきのない完全に自由なキューバ、そして人種や肌の色による差別のない完全な民主主義国家キューバの独立を、生誕100周年を機に主に武力で闘い取ろうとする運動をめざしたのです。そして、1868年から始まるセスペデスが率いたスペインからの第1次独立戦争、1895年に口火が切られたホセ・マルティが先導した第2次独立戦争、どちらも独立解放の火ぶたは東部から上がりました。だから東部には、バティスタの圧政を倒そうという革命的機運が色濃く残っていのです。
このような背景があり、フィデル達は「1953年」の、「東部」からのバティスタ打倒の軍事攻撃開始にこだわったのです。
写真 モンカダ襲撃直後逮捕されたときのフィデル 後ろの壁にホセ・マルティの肖像画がある
<モンカディスタ 誰もが死を覚悟した>
モンカダ兵営襲撃に際し、多大な犠牲者が生じることは襲撃に参加したモンカディスタ全員がわかっていました。だから、全員が「死」を覚悟して襲撃に臨みました。その決意を如実に物語る2つの事例を紹介したいと思います。
ひとつは、襲撃出発の時。まずゴメス・ガルシアが「われわれはすでに戦闘状態にある」という詩を読み上げたのち、フィデルがモンカディスタ全員を前に次のような短い励ましの言葉を送ったのです。「同志たち!あなたたちは数時間で勝利するかもしれないし、敗北するかもしれない。しかし、いずれにせよ、よく聞いてくれ、同志たち。いずれにせよ、運動は勝利するでしょう。もし我々が明日勝利すれば、マルティが熱望したことはより早く達成されるだろう。もし逆のことが起これば、この行動はキューバの人々に旗を掲げて前進する模範となるだろう。オリエンテ(東部)とキューバ全土で、使徒100周年の若者たちが私たちを支持してくれるだろう!68年と95年のように、ここオリエンテでも、自由か死かという最初の叫びをあげる!」。
もうひとつは、フィデルと副指令官アベル・サンタマリアとのやり取りです。アベルは自分がもっとも危険な兵営襲撃隊に指名されていないことに不満を持ち、フィデルに兵営襲撃隊に加えてほしいと懇願しました。その時、フィデルはアベルに「私はおそらく生きて戻ってくることはないだろう。・・・私は兵営に行くから、君は病院に行け。君はこの運動の魂なのだから。私が死んだら、君が私の代わりに指揮を執るんだ」と説得し、第2隊を率いるよう再度命じたのでした。
<2人の女性モンカディスタ>
襲撃行動には2人の女性も参加しています。メルバ・エルナンデスとアイデー・サンタマリアです。2人とも看護師の格好をして第2隊の市民病院襲撃隊に加わりました。襲撃失敗後は捕らえられ、7カ月の間監獄に収監され、出獄後は、再び革命闘争にはせ参じたのです。特に出獄後は、フィデルが監獄内でレモン汁を使って書いた秘密文書(メモ類)を、丁寧に火であぶりながら読み解き、印刷文書にまとめ上げていきました。そしてその文書をキューバ全土に広め普及させました。その文書こそキューバ革命のマニフェストとなった『歴史は私に無罪を宣告するであろう』でした。
写真 監獄にいるメルバ・エルナンデスとアイデー・サンタマリア
写真 1955年、フィデル出獄に合わせ迎えに行ったメルバとアイデー 左からメルバ、フィデル、アイデー
<「歴史は私に無罪を宣告するであろう」>
奇跡的に生き延び捕らえられたフィデルは、直ちに裁判闘争を開始しました。当初バティスタ政権は、フィデル抜きで裁判を進めようとしましたが、それもできず形ばかりはフィデルを出廷させた形式を取った裁判を行いました。しかし、弁護人はおらず、傍聴者もおらず、裁判の場となった病院の1室を軍兵士100人以上が取り囲むという異様さです。その中でフィデルは自分たちモンカダ襲撃の正当性を4時間にもわたって熱弁ふるったのです。まず、裁判の不当性を訴え、キューバのみじめな現状、特に半数の子ども達は学校にも行けない現状を暴き出し、そのような中で、モンカダ襲撃のような革命闘争の正当性を宣言しました。そして最後は有名な「私を有罪にせよ。それはたいしたことではない。歴史は私に無罪を宣告するであろう」で結ばれています。この陳述書をもとにフィデル自身が加筆訂正したものが、極秘裏に獄外に持ち出され、先述したようにキューバ全土に広まり、革命のマニフェストになっていったのです。
版画 モンカダ裁判でのフィデル 絵画 モンカダ裁判
<多大な犠牲>
襲撃失敗は、モンカディスタに多大な犠牲が強いられました。襲撃時の戦闘そのものでの犠牲者は、10名以下でしたが、その後捕らえられたモンカディスタ達に対し、バティスタ軍は容赦のない残忍な拷問と見せしめ、虐殺を繰り広げたのです。例えば副官アベル・サンタマリアは、存命にもかかわらず、片方の目をくりぬかれ、その目を姉のアイデー・サンタマリア(先述の女性闘志の一人)に見せつけることまでされて、虐殺されました。また、米南部の白人至上主義殺人集団KKKが黒人に行う殺人リンチと同じように、捕らえたモンカディスタを生きたまま首を縄で縛り、木に吊るす虐殺まで行いました。結局70名以上が犠牲となりました。そして、生き残ったほとんどの者も懲役が科せられ、監獄行きとなったのです。
<「モンカダは挫折を勝利に変えることを教えてくれた」>
多大な犠牲は決して無駄ではありませんでした。モンカダ兵営襲撃は、キューバ革命勝利に向け大きな号砲となりました。それは、第一に、バティスタ暴政を打ち破るまで終わらない武装闘争の時代を開始する合図となったことです。更に大事なことは、キューバ革命勝利に向け新たな指導部と新たな組織を生み出しました。それは、既存政党の静観主義とえせ改革主義ときっぱり手を切り、闘争的で断固としたものでした。つまりフィデルという不世出の革命家・理論家・運動組織者を生み出したことです。そしてフィデルの周りにキューバ国内外から非常に優秀でどんな困難にもたじろがない闘士が続々結集してきました。亡命先のメキシコで、ゲリラ戦士としてフィデルに合流したチェ・ゲバラがもっとも有名ですが、彼だけではありません。フランク・パイス、セリア・サンチェス、ビルマ・エスピン、アーノルド・アート等々キューバ国内からもフィデルの運動に次々とすばらしい闘士が結集してきました。これらキューバ国内の闘士たちは、シエラ・マエストラ山中のゲリラ部隊に対し、キューバ国内で武器・弾薬・資金を徴収し山中に運び込む任務を遂行してきました。あわせて、ゲリラ戦に呼応するゼネスト等の労働組合運動の組織化にも着手しました。それもバティスタによる暴力的・強権的迫害の下で行っていたのです。
70年前のフィデル達のモンカダ兵営襲撃が、その後のゲリラ戦の前進を、そして、それに街頭行動が呼応する形でキューバ革命が前進し、遂に1959年1月革命が勝利を迎えました。歴史の巨大な1歩となったのです。フィデルはこのように言っています。「モンカダは挫折を勝利に変えることを教えてくれた」と。
さすが「音楽大国 キューバ」。この運動の参加者から「こんなすばらしい運動には、(独自の)歌が必要だ」として、モンカダ兵営襲撃直前に急遽歌が作られました。それが『7月26日運動行進曲』。その後ことあるごとに、キューバ国歌と共に革命の渦中で歌われました。以下のyoutubeから視聴できます。是非ご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=mDgpFAq-R5I
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