10月定例会報告 ビクトル・ハラだけじゃない! 「新しい歌運動」のすばらしき歌い手たち

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チリのビクトル・ハラだけじゃない!

「新しい歌運動」のすばらしき歌い手たち

 

10月の定例会では、中南米の新しい歌運動の紹介を行いました。新しい歌運動と言えばチリのビクトル・ハラがあまりに有名です。昨年の定例会では、チリの反革命クーデター50周年を期してビクトル・ハラを取り上げました。今回は、あえてビクトル・ハラ以外の歌い手を紹介する形としました。今までまったく知らなかった歌い手も数多く登場し、今一度新しい歌運動の深さと広がりを、音楽を通して実感しました。

新しい歌運動とは

ラ米の新しい歌運動には大きく2つの柱があります。ひとつ目の柱は、歌を通して、世の中の不正を告発し、真実の敵を明らかにし、民衆に闘う重要性に目を開かせようとする政治的な側面です。新しい歌運動が大きく盛り上がった1900年代後半は、米国の露骨な後押しを受けて、ラ米各国において軍事独裁政権が次々に誕生した時代でした。新しい歌運動はそれと対決する重要な闘争を担うことになり、特に、1973年チリのピノチェットによる反革命クーデターに際しては、新しい歌運動が闘争の最前線を担ったのです。新しい歌運動がなければピノチェットを打倒できなかったといっても過言ではないでしょう。

もうひとつの柱は、ラジオ・テレビというメディアから洪水のごとく流れてくる米の耳心地よいポピュラーソングに対抗でした。これらの軽やかな音楽は、映像も加わることで、米の腐敗した大量生産・大量消費・大量廃棄という一見{豊かな}生活への強いあこがれを視聴者に抱かせます。合わせて、退廃的で刹那的な気分も植え付ける、民衆の「ア阿片」とも言われるようなものです。新しい歌運動は、これらへの対抗として、昔から歌われ消滅の危機に瀕している各地の民謡等を丹念に採譜しながらもそれをアレンジし、民族楽器を使い、民衆の言葉で歌い、世に広めていく、そのような想いから始まったものなのです。そうすることで、米の支配に対抗する民族の誇りを育てていこうとしたものなのです。もちろん、民衆の生活や心情とは切り離された「社会主義的」言辞を安っぽく並べ立てるだけの「歌作り」を、きっぱりと拒絶したことは言うまでもありません。

以下で、例会で取り上げたすばらしき歌い手をひとりずつ紹介します。

<アタウアルパ・ユパンキ(アルゼンチン)>

新しい歌運動の先駆者と言えば、間違いなくアルゼンチンのユパンキです。1920年代から民衆音楽の歌い手として登場しました。左手でギターの弦をつま弾く独特のスタイルと相まって、数々のヒットを飛ばしました。またアルゼンチン各地の民謡採譜も精力的に行い、またその歌う姿勢から、ペロン等軍事政権から多くの迫害を受け長期にわたる国外亡命も余儀なくされたのです。芸名とした「アタウアルパ・ユパンキ」はインカ帝国の2人の皇帝の名からのものです。南米各地では、19世紀になるまでスペイン植民地からの独立戦争・反乱において多くの指導者は、インカ帝国皇帝の名を僭称し闘争を鼓舞してきました。ユパンキがあえてインカ帝国皇帝の名を語ったのは、歴史に根付いた反西欧・反植民地の姿勢を堅持するためだったのではないでしょうか。

例会で紹介されたのは、ユパンキの代表曲のひとつ『トゥクマンの月』。ユパンキが幼少を過ごしたトゥクマン(アルゼンチン北西部の地名)で見た月を懐かしむ心情が歌われ、フランスへ亡命するときの心情を歌ったと言われています。これ以外にも『インディオの小径』、『ギターよ!教えてくれ』、『牛車にゆられて』等多数の代表曲がある。

 

<ビオレータ・パラ(チリ)>

ユパンキと双璧をなす新しい歌運動の先駆者がチリのビオレータ・パラ。幼少期から貧しさのため歌うことで生計を立てていました。そして、多くのヒット曲も世に出しましたが、いつも生涯いつも貧乏だったことは変わらなかったようです。彼女の音楽活動で特筆すべきなのは、若き音楽家を数多く育てたことです。「パラの家」と称したライブハウスを営む中で、若き音楽家たちが音楽を世に出すチャンスを与え続けたのです。その中の一人がビクトル・ハラでした。彼は、「パラの家」で歌い始めた時には、新進気鋭の演出家としてすでに世に知られていましたが、パラのなかば強引な後押しを受け、ビクトル・ハラは演出家ではなく歌の道に進んでいくようになったのです。しかし、そのようなパラは、気性も激しく、50才直前の1967年にピストル自殺します。敬愛していたアジェンデが大統領に当選するわずか3年前のことでした。原因ははっきりしませんが、若きバンド演奏家との恋愛の破局が原因と言われています。

例会で紹介されたのは、ビオレータ・パラの代表曲のひとつ『17才に戻れたら』。自殺直前に発表された彼女の最後のLPに収録されています。もしかすると遺書に相当するかもしれません。これ以外にも『人生よ!ありがとう』『手紙』等多数の代表曲があります。

 

<アリ・プリメーラ(ベネズエラ)>

アリ・プリメーラは、幼い時から貧しく、靴磨き等をしながら生計を立てる一方、高校・大学と進学しました。しかし、大学時代に、学業とは全く関係ない歌の道に進むことを決め、ベネズエラの新しい歌運動を牽引します。同時に、積極的に政治活動にも加わります。彼の歌の特徴は、青年期の貧しい経験をもとに、貧しい労働者の心情をストレートに歌い上げたこと。若くして交通事故で亡くなりますが、現在のマドゥーロ政権を熱烈に支えるコミューンのひとつに彼の名が冠されています。

例会で紹介されたのは、1983年ニカラグアで開かれた新しい歌運動の歴史的コンサート「中米平和のためのコンサート」で歌うアリ・プリメーラ。その時歌っていたのが、代表曲のひとつ『青い帽子』。その他にも『私は哲学を知らない』『段ボールの家』等の代表曲があります。

 

<アンパロ・オチョア(メキシコ)>

アンパロ・オチョアは、少女期に「歌手」を夢見るが、学業終了後は、一旦は高校教師となります。しかし、歌の道をあきらめきれず、教師の職を捨て歌い手となり、メキシコの新しい歌運動の第1人者となります。彼女の歌は、スペイン・西欧による南北アメリカ大陸への侵略・植民地化をテーマとしたものが多く、また、チリのピノチェット軍事独裁政権に反対する音楽活動も積極的に行いました。

例会で紹介されたのは、代表曲のひとつ『もう一つのメキシコ』。それ以外にも彼女の代表曲は、「マリンチェの呪い」『読書を通して』等があります。

 

<ダニエル・ヴィグリエッティ(ウルグアイ)>

ダニエル・ヴィグリエッティは、歌手というよりは大衆運動の闘士の側面が強い歌い手です。若い時から左翼運動に献身し、ジャーナリストとしても名高く、そのため、ウルグアイの軍事政権から厳しい迫害を受け、逮捕や国外亡命を何度も経験しました。

例会で紹介されたのは、先述の「中米平和のためのコンサート」で歌うダニエル・ヴィグリエッティ。その時歌っていたのが、『フェンスを壊そう』。これ以外にも『私のアメリカ(大陸)のための歌』、『グリシト』等の代表曲があります。

 

<メルセデス・ソーサ(アルゼンチン)>

新しい歌運動として、忘れてならないのはメルセデス・ソーサ。彼女に関しては、これまでにも何回となく紹介してきました。今回はひとつだけエピソードを紹介します。彼女が亡くなった時、アルゼンチンでは彼女に対し喪に服するため、遺体を3日間大統領官邸に安置し、彼女の代表曲『人生よ!ありがとう』が流れ続けました。大統領官邸は彼女との最後のお別れにはせ参じた人たちで取り囲まれたといました。

彼女は、若き音楽家を育てるため生涯自分で歌を作ることはなく、別の音楽家の作った歌を歌い続けました。代表曲の『人生よ!ありがとう』は先述したビオレータ・パラが作った歌。その他にも『アルフォンシーナと海』、『ファナ・アスルドゥイ』等多数の代表曲があります。

最後に、例会では、新しい歌運動の紹介だけでなく、ベネズエラ大統領選の模様も紹介されました。まず驚いたのが、現職のマドゥーロ大統領を支持する選挙集会。幅4~5車線の大通りが長さ数キロ以上にわたってマドゥーロを熱烈に支持する人の波であること。ともかく、人、人、人。米や西側メディアが喧伝している「マドゥーロ支持は少ない」というのがいかに嘘とデマであるかが一目瞭然でした。そしてもう一つ驚いたのが、その選挙集会の中で、集会中流れ続けるラップ音楽と演説をわざわざ中断させ、マドゥーロがマイクを握って歌い出したことです。「グラシアス・ア・ラ・ビーダ ケ・メ・ア・ダド・タント」と。そうメルセデス・ソーサの『人生よ!ありがとう』でした。今も新しい歌運動が脈々と受け継がれていることを改めて実感しました。