フィデル・カストロの功績を振り返る ~ヘレン・ヤッフェ
2017年 チェ・ゲバラ没後50年 連載を開始にするにあたって
フィデル・カストロの功績を振り返る
2017年、チェ・ゲバラが、南米の地コロンビアで米軍・CIAに支援された政府軍によって殺害されてから半世紀が経過します。私たちはこの節目の年にあたり、チェ・ゲバラの1959年〜65年の間におけるキューバ革命後の社会主義経済建設におけるゲバラの格闘について、『革命の経済学』(“Che Guevara -The Economic of Revolution” 著者:ヘレン・ヤッフェ)を紹介する形で跡付けていきたいと考えています。私たちは、現在キューバで進められている社会・経済改革に注目してきましたが、その核心において、形こそ違え、ゲバラが取り組んだ社会主義建設に取り組んだ際の様々な試行、そこを貫く深い思想を見ることができることに気がつきました。そのことを強く認識するきっかけとなったのが、上著『革命の経済学』でした。
英国人のキューバ研究者であるヘレン・ヤッフェ(Hellen Yaffe)は、フィデル・カストロの死去に際して、以下で紹介した論評を投稿しています。私たちが、チェ・ゲバラの連載を開始するにあたって、彼女のフィデル・カストロ死去にめぐる論評を紹介したいと思います。なぜなら、私たちは、フィデル・カストロの功績を著しくねじ曲げるような論調が溢れかえっているとの思いを強く抱いているからです。常套句の「独裁者」。良くても「功罪併せ持つ独裁者」。彼女はそれに対して、「彼を「独裁者」として切り捨てることは、フィデルの指導下のキューバにおいてなされてきた論争、様々な試行、集団的な学習についての豊かな歴史をねじ曲げることである」と怒りを込めて語っています。そう、それは、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラ、カミロ・シエンフェゴス、ラウル・カストロ、その他の多くの革命家たちが命を賭けて守り通そうとしたもの、価値を否定することなのです。彼女のフィデル・カストロ評は、他の記事、論評にはない鋭い指摘に満ちています。革命の成果についての正当な評価はもとより、キューバを今日にまで発展させたフィデル・カストロの革命家としての重要な資質についても言及されています。
「チェ・ゲバラ
没後50
翻訳記事
司令官フィデル:どこまでも戦士
Comandante Fidel :Combatant to the End
ヘレン・ヤッフェ
http://www.telesurtv.net/english/opinion/Comandante-Fidel-Combatant-to-the-End-20161126-0013.html
フィデルの天賦の才能は、戦略的方向性といった展望を見失うことなく、日々の緊急事に対応しつつも、戦術的一歩に必要な事柄を作り上げる能力にある。
彼の告白によれば、2006年、彼を殺害間際まで追い込んだのは、武装闘争、テロリズムあるいは深刻な病であった。しかしフィデル・カストロはこれらをやり過ごし、平安の中で死の床についたのである。
2016年11月25日、彼の90歳での死は、世界中のニュースを独占した。キューバでは、数日間、喪に服されることになっている。
圧倒的なキューバ人がフィデルを追悼し、敬意を払うであろう。いつの日か、悲しみを通して沸き起こってくるものは誇り高き思いである。天命が最高司令官を連れ去ったのであり、敵ではなかったのである。それは、最高司令官にとっては、安らぎの源であり続けてきたに違いない。彼は、最前線から、バチスタ独裁政権に対して、米帝国主義に対して、「バチスティアーノ」に対して闘うことを指導した一人であった。「バチスティアーノ」とは、不名誉な権力への復帰をあきらめなかった、かつてのキューバ人エリートたちのことである。今年のはじめのオバマ訪問後の「兄弟であるオバマ」への厳しい批判に至るまで、フィデルは、決して自らが成し遂げると誓った自決権、独立、社会主義キューバの実現に向けて闘うことを止めなかった。
弁護士として鍛えられ、兵士として試されてきたものだが、フィデルの天才は、日常の緊急性に応えながら、戦略的な展望を見失うことなしに、戦術的な前進の必要性に応える能力にあった。彼を「独裁者」として切り捨てることは、フィデルの指導下のキューバにおいてなされてきた論争、様々な試行、集団的な学習についての豊かな歴史をねじ曲げることである。
1950年代、フィデルは、キューバ人民に社会福祉と土地改革をもたらしたモンカダ計画に着手し、キューバのエリートの不当な獲得物を没収することを約束した。これは彼のキューバ人民に対する約束であり、そして彼らは1959年の最初の日、大群衆となって現れてハバナまでの長い道程でフィデルを歓呼して迎えたのである。こうして疑いもなく、フィデルは歴史によって無罪を宣告されたのである。この最初の何年間に100万のキューバ人が島を離れ、その大部分は米国に向かい、そこにフィデルとキューバ革命に対する暴力的反対地域を形成した。彼らは誰だったのか。彼らは地主、実業家、政治家であり、以前の汚職と腐敗のひどい水準を越えさえする者らであった。彼らは島から逃げたが、一時的なことだと考えた。しかし、彼らが米政府と国家諸機関から継続的に受け取った金融的、軍事的、政治的、イデオロギー的援助をもってしても、キューバ革命を潰すことはできなかった。すなわち、傭兵の侵略、サボタージュ、テロリズムや生物兵器、核戦争の威嚇、地域的および国際的孤立化、米の封鎖、賄賂、腐敗、暗殺をもってしてもキューバ革命を潰すことはできなかった。
キューバに対する米国の政策立案を支配し、キューバを国内政治問題に変換しようとしたのは、これらキューバ人亡命者とその同盟者であった。彼らはキューバに対する学術的著作と評論の見本を確立し、メディアの内容をコントロールし、キューバを国として、フィデルを人として、社会主義をもう一つの発展戦略として理解する私たちの能力を全般的に阻害した。だから、彼の死に際して、マンデラとは違う扱いを受けた。フィデルが「罪」を許されるのではなく独裁者として、たぶん全国民の抑圧者として非難され続けることに、私たちは誰一人として驚かない。
しかし、別の所、キューバの海岸をはるかに越えた所では、世界の何百万の人々が彼ら自身の指導者だと主張する一人の指導者の死を悼むであろう。米が支援した侵略を打ち破り、米帝国主義に対して起ち上がり、そしてキューバで無料で訓練を終えるや否や世界の貧しい地域へ医師、教育者、開発労働者を送った革命の指導者の死を悼むであろう。1960年代、フィデルは米の帝国主義と植民地主義を非難し、ラテンアメリカ、アフリカなどの革命運動を支援し、国際的に反帝国主義勢力を協調させるための三大陸会議を主催した。1970年代、アパルトヘイト南アフリカの植民地的野望からアンゴラを防衛するために、第1陣およそ40万人のキューバ人を派遣した。1980年代、フィデルは第三世界の債務を返済不可能なものとして非難した。年代、彼は新自由主義の破滅的な人的コストを非難し、世界に人類と地球を脅かす生態系の危機を警告した。2000年代、彼はアフリカ、アジアなどの貧しい学生たちにラテンアメリカ医科大学(1999年設立)の扉を開き、その結果彼らが無料で研究し自分たちの社会に帰って貢献できるようにした。そして彼が指導したイデオロギー闘争は、文化と教育の分野で何が成し遂げられるかを示したのである。
今日のキューバは1959年のキューバとは比較にならない。健康、医療、バイオテクノロジー、文化、芸術、スポーツ、そしてあらゆる種類の差別との戦いにおいて、この島が成し遂げたことを少し考えてみよう。彼らは新しいもう一つの民主主義の体制を構築した。そこには複数政党もなく、政治的有名人もなく、政治に経歴もいらず、諸原則は最新の投票に反応する政治評論家によって考案されるものでもない。確かに誤りと恥ずべきエピソードもある。しかし、フィデルの最も強力な真剣な批評家は、イグナシオ・ラモネやオリバー・ストーンとのインタビューにまさに耳を傾けたように、いつも彼自身であった。
われわれが断言できる一つのことは、フィデルが自分の諸原則に忠実であったということである。ウィリアム・レオグランデとピーター・コロンブルのワシントンとハバナとの交渉の秘密の歴史に関する最近の著作は、外交関係がほとんど壊れそうになるやそれぞれの政府が関係の修復と改善の手段を追求したことを記している。しかし明らかなことは、歴史の様々な瞬間で、例えば米の封鎖解除のために敵意を引き下げよとの提案をフィデルが拒否したことである。それらは反帝国主義(アンゴラの場合は反人種差別主義)の国際主義的大義の放棄を前提条件にしていたからであった。すなわちアフリカ南部からの軍隊の撤退、プエルトリコ独立への声高な支持の停止、中米革命運動への支援の停止、そしてソ連との関係の切断を。これらはフィデルがとうてい賛成できない要求であった。国際的な反帝国主義の義務を取引することなどありえないことであった。カール・マルクスは言った、「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、過去から与えられ持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」と。
フィデルは歴史を作り、そして歴史は彼に無罪を宣告した。彼が亡くなろうとも、それらのイデオロギー的な敵は彼の生涯に対して激怒し続けるのである。